紫陽花の聞くとめどなき独り言
PTAの集まりで学校へ。
帰る頃には雨は上がっていた。
ジメジメして苦手な季節だけど、綺麗な紫陽花が見られるのはこの時期だけだものね。
朝、テレビに鎌倉のお寺の紫陽花が映っていて、1人で鎌倉に散策に行った去年の春のことを思い出していた。
古寺に数多の地蔵躑躅燃ゆ
今見返すと、どこかで見たことがあるような、手垢の付きまくった句。ただその当時は「なにやらそれらしい俳句ができた✨」と嬉しかった。
私に俳句の種が蒔かれたのは小学生の時。松山で育つと、子規記念俳句大会へ向けて俳句を作らされる。学校から一括して送られるのだ。あまり深く考えることなく、素直に作ったものが2年連続で入選して子供ながらに驚いた。
4年 地下道でこおろぎが鳴く帰り道
→地下道にこおろぎが鳴く帰り道
5年 床下に鈴虫鳴いて日記書く
→床下に鈴虫鳴いて日記つく
改めて見ると虫が鳴くシリーズだったのね。
下は選者の添削の入ったもの。賞がもらえたことはとても嬉しかったが、添削されたことはいたく気に入らなかった。クソ生意気なガキである。ただ、そんな年端もいかない子供にとっても、自分の作品に対する思い入れや愛着があったということだ。(今は上記の句も添削の方が良いと思えます。しかし、句意がわからないうちからの添削には反対派。作者への敬意の感じられない添削は論外。全てにおいて、傾倒する師の教えだとすれば話はまったく別)
中1で転校して松山を離れて以降も、母や年の離れた姉はずっと俳句を続けていた。私はというと、学生生活、社会人、結婚、子育て、その後の人生の中に自分で作る俳句はあまりなかったが、数少ない成功体験として、俳句というものが嫌いではなかった。たまに母や姉と顔を合わせては、俳句の話をしたり、作ることを勧められたり。ただ、いつのまにか俳句というものを、ものすごく難しく考えるようになってしまっていた。「私、言葉知らないし知識もないから、俳句なんて作れない」そう言って、よく母や姉の勧めを断った。
そんなとき出会ったのがプレバトだった。とても難しく考えていた俳句というものが一転、こんなにも自由でいいのか!という思いに徐々に変わっていった。私の中にあった俳句の種に、組長が清らかな水を与えてくれた感覚だった。
芽が出て、花が咲くかはわからない。
それでも作る、俳句は苦しくも楽しいんだと知ったから。