ときどきヒカリゴケ

ハイポニストヒカリゴケの俳句や生活のこと

ハイポ「炬燵」机くんレポート

つぎがいさん、ありがとうございます✨

下記、掲載させていただきます🍀

ほおお、昔の炬燵には炭が❗️

 

 

炬燵の机くんレポートです。コーヒーブレイク的に楽しんでもらえたら幸いです。

 

・炬燵は室町時代に、禅宗から広まったとも都市で囲炉裏に櫓を設けて炬燵にしたのが始まりともいわれている。夏には板の蓋をするのが一般的だった。
・江戸時代に急速に普及した。木炭が庶民にまで行き渡るようになったのが18世紀になってからなので、当然木炭を使う火鉢や炬燵の一般的な普及もそれ以降になった。江戸時代に木綿布団が庶民に広まったためともいわれている。
・江戸時代に「炬燵を明ける」といって、その年はじめて火を入れるのは十月の中の亥の日で、掘り炬燵をあけて火を入れ、火伏せの神である愛宕神をまつる風習があった。この日にすると火災を防ぐという。
・語源説の一つに柳田国男のケタツ(踏台)があり、魚釣用の軽便な足場という意味のキャタツという語から分かれたものであり、足を温めながらやぐらを腰かけとして使っていたのだろうとするものがある。
・京都では「おこた」という。底冷えの厳しい京都では、一度足を入れたらそこから出るのは容易ではない。
・火鉢は家族だけでなく訪問客も使ったが、炬燵はどちらかといえば家族が使うものだった。掘り炬燵は畳をあげて床下に石を積んだりコンクリートで囲ったりして、その上に木製のやぐらをかぶせて使い、大きさは半畳~一畳ほど。置炬燵はやぐらの中に炭の入った土製の容器を置いて使った。部屋から部屋へ移動して使える点が重宝だった。
・炉は時代とともに(昭和30年代以降)炬燵へと移行していった。炉は炬燵に変化してからも接客の機能はあったが、炊事、採光、乾燥の機能は消滅した。しかし新しく食事の機能が加わった。元々食事は炉のある居室でとっていたが、炉を囲んでの食事ではなかった。炉が炬燵に変わり、炬燵の上に台を置いて、それをテーブルにして食事をとるようになっていった。
・茨城の民話「こたつ」:村のある家で、はじめてこたつを買って来ました。「はじめてのこったから、みんなをよんでやんべ」と隣近所の人を招いて、かわりばんこにすこしずつこたつへ入れてやることにしました。すると、頭からもぐって行って向こうへ抜け、「お先にいただきやんした」。また向こう側の人が頭からこっちへ抜けて、「お先にいただきやんした」。みごもって大きな腹をかかえている女もやって来て、「こたつを買っただなんてめでてえこんだから、腹ん中の子のためにも」ともぐりましたが、途中でつっかえてこたつやぐらを背中へのっけたまんまはいずり廻って、「助けとこれっ」と悲鳴をあげました。
・昔話「こたつ入り」:村人が江戸見物に行き、こたつに入るようにすすめられるが、誰も入り方を知らない。まず、庄屋があいさつをし、着物を脱いで裸になる。そのままこたつの中をひと回りする。あとの者もみんなその通りにするという話。(炬燵というものを知らないことから起こる話。炬燵は室町時代に存在していたが、一般に普及したのは近代になってから。栃木、新潟などの昔話)。


去年の兼題の「炭」とリンクしているんだー!というのが楽しかったです。